映画「幸福なラザロ」
映画「幸福なラザロ」を観に行ったので、感想を書いてみた。(ネタバレありです)
舞台はイタリアの片田舎。小作人達と領主との人間模様が描かれており、その中で小作人である少年ラザロは、そのどちら側からも都合のいいようにこき使われる人物として登場する。
物語のテーマの一つに「搾取する側、される側」というのがあるのだが、大勢の小作人と領主一家の中で、唯一ラザロだけは決して人から奪うことをしない。ただひたすら与え続け、いいように利用されても素直に人を受け入れ、怒りも拒絶もしない。
非常に純な目をしており、いつも微笑み、お馬鹿さんなようでいて、私たち観客にはちょっと神がかってさえ見える。なのに、映画の中では周りのほとんどの人間から気にもとめられていない存在だった。
”毎日畑を耕し、質素なものを食べ、困っている人がいれば自ら喜んで助けに行き、人に馬鹿にされても怒らずただ微笑んでいる”、「雨ニモマケズ」はそんな内容の詩だったと思う。
宮沢賢治はこの詩の最後で「そういうものに私はなりたい」と言っている。
子供の頃、なぜこんな地味な人になりたいのだろうと、疑問に思ったのを覚えている。今回、このラザロを見て、こういう人の心の状態がどんなものか想像してみた。
一見すると、彼らは物質的にも精神的にも不足感たっぷりになりそうだが、逆に考えると「身軽」ともいえる。
生活に必要な最低限のものは持っている、人から気にもされない存在なので人間関係のしがらみも少ない、そしてやるべき仕事がちゃんとあり、人の手助けもできるほど健康。これって、もしかして「自由」と「感謝」で満ち溢れているってことじゃないのか!?
そもそも不自由や不足感を感じる精神状態の場合、たとえ人の役に立っても、自分が満足できない。そして与えた分だけ見返りを求めてしまう。
ラザロも「雨ニモマケズ」の理想像も、ひたすらギブギブギブで見返りを期待しない。
というより、自分が与えた時点で、すでに何かを「もらっている」と受け止めれる人、本能的にそういう次元を知っている人と言えるだろう。
悟りの境地って、こんな感じなのかな?賢治さんはこれを目指したかったのかな。
生きて人の役に立て、五体満足なだけで感謝、あるがままの状態で感謝、そしてそうであるがゆえに心は圧倒的自由を享受している、ということではないだろうか。賢治さんはそんな「自由」と「感謝」で満ち溢れた人間像生き方を理想と思ったのではないだろうか。
ラザロはまさにそれを体現したような人物だった。しかもこの映画を作ったのは、日本人ではなくイタリア人だ。こういう人間像を持つ人が、外国にもいることに少々驚いた。
ラザロは最後、現代社会の新しい仕組みの中に入って行き、それを理解できず、誤解され亡くなってしまう。悲しいのだが、その反面、映画のラストに感傷的なものをあまり感じないのは気のせいだろうか。
ラザロはああやって亡くなった後も、姿を変えてどこかでまた生きている存在の様な気がする。
それに正直、ラザロの様な心はどんな人の中にも存在している気もする。皆がラザロである可能性がある、と思うのは変だろうか。